黒部ライオンズクラブ

クラブの紹介

 

会長のメッセージ

黒部ライオンズクラブ 会長
黒部ライオンズクラブ 会長
L. 谷村一成

 この度、歴史と伝統ある黒部ライオンズクラブ第62代会長に就任させていただき、大変光栄に感じると共に、その重責に身の引き締まる思いであります。微力ではございますが精一杯努めてまいりますので、皆さまのご指導ご鞭撻をお願い申し上げます。
 さて、5月8日から新型コロナウイルスの感染症法上の位置づけが、季節性インフルエンザなどと同じ「5類」に移行しました。その結果、法律に基づいた外出自粛の要請などはなくなり、感染対策は個人の判断に委ねられ、3年余り続く国のコロナ対策は大きな節目を迎えました。当クラブにおきましても、この3年間は事業の中止、延期、規模縮小やWebでの例会等、対策を講じての活動をしてきましたが、「5類」移行により、コロナ対策は平時に近づきつつあるため、今年度は積極性を高めながら活動したいと考えております。
 クラブスローガンは、「楽しもう!広げよう!つなごう!アクティビティ」としました。これは、コロナ禍により疲弊した感のある中、今一度ライオンズクラブの原点を考えて活動しようという思いです。また、ライオンズクラブの使命は一言でいうと「奉仕」と認識しております。そして、その活動「アクティビティ」こそ、ライオンズクラブの奉仕活動の特色だと理解しております。アクティビティをまずはメンバー自らが楽しみ、そして地域の人々に伝え広げ、この先10年、20年、100年と歴史を未来につなげたいという思いです。
 例会やアクティビティを通してメンバーの絆を深めると共に、クラブを盛り上げ次世代につながる1年にしたいと思いますので、何卒よろしくお願い申し上げます。

 この度、歴史と伝統ある黒部ライオンズクラブ第62代会長に就任させていただき、大変光栄に感じると共に、その重責に身の引き締まる思いであります。微力ではございますが精一杯努めてまいりますので、皆さまのご指導ご鞭撻をお願い申し上げます。
 さて、5月8日から新型コロナウイルスの感染症法上の位置づけが、季節性インフルエンザなどと同じ「5類」に移行しました。その結果、法律に基づいた外出自粛の要請などはなくなり、感染対策は個人の判断に委ねられ、3年余り続く国のコロナ対策は大きな節目を迎えました。当クラブにおきましても、この3年間は事業の中止、延期、規模縮小やWebでの例会等、対策を講じての活動をしてきましたが、「5類」移行により、コロナ対策は平時に近づきつつあるため、今年度は積極性を高めながら活動したいと考えております。
 クラブスローガンは、「楽しもう!広げよう!つなごう!アクティビティ」としました。これは、コロナ禍により疲弊した感のある中、今一度ライオンズクラブの原点を考えて活動しようという思いです。また、ライオンズクラブの使命は一言でいうと「奉仕」と認識しております。そして、その活動「アクティビティ」こそ、ライオンズクラブの奉仕活動の特色だと理解しております。アクティビティをまずはメンバー自らが楽しみ、そして地域の人々に伝え広げ、この先10年、20年、100年と歴史を未来につなげたいという思いです。
 例会やアクティビティを通してメンバーの絆を深めると共に、クラブを盛り上げ次世代につながる1年にしたいと思いますので、何卒よろしくお願い申し上げます。

黒部ライオンズクラブの成り立ち

1956(昭和31)年4月、富山県下では初の国内では27番目の富山ライオンズクラブが産声を上げた。翌1957年3月には、後に黒部ライオンズクラブの創設を導くこととなる滑川ライオンズクラブが誕生した。
「やるまいか」を合言葉に滑川ライオンズクラブの初代会長藤谷玄雄氏は、同クラブのチャーターナイトに米屋喜一、堀川恒次郎(ともに歴代黒部商工会議所会頭)を招き、認証式典の熱気の中で地域の発展と社会貢献に結びつくライオンズ クラブをぜひ黒部地区にもと、創設を強く促した。
後に黒部ライオンズクラブの初代会長を務めることになる米屋は、「ライオンズは何か全く知らないで出席したが、用語は 英語が多く…… 黒部で結成することは容易ではないと感じた」が、「黒部、宇奈月両市町の発展のためになればと考えて、まず経済懇談を目的とした『黒部木曜会』を結成した」と、当時を回想して述べている。
この黒部木曜会が母体となり、黒部市と宇奈月町の経済人、産業人たちが討議を重ねるうちに、徐々に団体発足の機運が醸成されていった。そして、1961(昭和36)年1月、猛吹雪の中を開催された定例の木曜会において、当時の宇奈月町長・ 河内則一氏が「やるまいか」と一同を鼓舞し、設立に向けての舵が大きく切られたのである。
地域への周知やメンバー募集など、関係者の献身的な努力の結果、同年7月、「黒部ライオンズクラブ設立趣意書」、が発表された。黒部市長、宇奈月町長、黒部商工会議所会頭、地元有力企業の社長ら、錚々たる発起人が名を連ね、「世界につ ながる本クラブの誓いである、知性を高め』『友愛と寛容の精神を養い』『平和と自由を守り』『社会奉仕に精進する』の実践に努めたいと思います」と謳うその趣意書こそ、4年間の歳月をかけて目覚めた黒部ライオンズクラブから社会への最初の咆哮であった。

1956(昭和31)年4月、富山県下では初の国内では27番目の富山ライオンズクラブが産声を上げた。翌1957年3月には、後に黒部ライオンズクラブの創設を導くこととなる滑川ライオンズクラブが誕生した。
「やるまいか」を合言葉に滑川ライオンズクラブの初代会長藤谷玄雄氏は、同クラブのチャーターナイトに米屋喜一、堀川恒次郎(ともに歴代黒部商工会議所会頭)を招き、認証式典の熱気の中で地域の発展と社会貢献に結びつくライオンズ クラブをぜひ黒部地区にもと、創設を強く促した。
後に黒部ライオンズクラブの初代会長を務めることになる米屋は、「ライオンズは何か全く知らないで出席したが、用語は 英語が多く…… 黒部で結成することは容易ではないと感じた」が、「黒部、宇奈月両市町の発展のためになればと考えて、まず経済懇談を目的とした『黒部木曜会』を結成した」と、当時を回想して述べている。
この黒部木曜会が母体となり、黒部市と宇奈月町の経済人、産業人たちが討議を重ねるうちに、徐々に団体発足の機運が醸成されていった。そして、1961(昭和36)年1月、猛吹雪の中を開催された定例の木曜会において、当時の宇奈月町長・ 河内則一氏が「やるまいか」と一同を鼓舞し、設立に向けての舵が大きく切られたのである。
地域への周知やメンバー募集など、関係者の献身的な努力の結果、同年7月、「黒部ライオンズクラブ設立趣意書」、が発表された。黒部市長、宇奈月町長、黒部商工会議所会頭、地元有力企業の社長ら、錚々たる発起人が名を連ね、「世界につ ながる本クラブの誓いである、知性を高め』『友愛と寛容の精神を養い』『平和と自由を守り』『社会奉仕に精進する』の実践に努めたいと思います」と謳うその趣意書こそ、4年間の歳月をかけて目覚めた黒部ライオンズクラブから社会への最初の咆哮であった。

事務局

黒部ライオンズクラブ 事務局

〒938-0037
富山県黒部市新牧野103番地 ファーストビル2F

TEL.0765-54-1026

FAX.0765-54-1560